「Rule」 ルール  るーる 

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ようこそ、フローリッシュハウスの部屋へ。(笑)

共同生活援助のGHとしましては、利用者へのルールは大事な事になります。

他人が一緒に住む環境なので、皆が納得出来るルールが必要になります。

個人と集団、悩ましい問題です。誰もが一人では生きる事は出来ないですが、一人の人間としましては、自分の生き方を尊重もしてもらいたい。そのせめぎあいの中で、ある意味妥協も必要な時もあります。

ルールを守らないのは、勿論良くないです。でも、すぐ罰なのか、見解の相違なのか、確認をしていく作業や、潤滑油としての、ソーシャルワーカー(SW)の支援員の福祉サイドの人間としましては、大切な役割の存在の必要な事だと思っています。そもそも上手に生きる事が出来ない障害者の支援員としまして、アイデンティティのある支援のSW業務です。支援員であって、指導員や批判員やルール判定員や裁判官ではないです。(笑) 

自分の若い時は福祉サイドは、指導員しかいなかったので、本当に良い時代になりました。

利用者や困っている方々にとって、支援員やサポートスタッフは大切な存在になります。

まず、ルールとは、何でしょうか?

みなさんの周りには、スポーツのルールや交通ルールなど、さまざまなルールがあります。法律も、こうしたルールのひとつです。

そもそも、なぜルールはあるのでしょうか?
なぜルールがあるのか?を考えるには、逆に、もしルールがなかったらどうなるか?を考えてみるとよいでしょう。
もし、赤信号や青信号がなくなってしまったら、いつ道路をわたってよいか分からなくなってしまいます。また、もしサッカーに「レッドカード」や「イエローカード」がなかったら、けが人が続出するでしょう。
そう考えると、人々が安全で平和に暮らしていくためには、やはりルールが必要だ、ということがわかってきます。

では、逆に、なにもかもが、ルールで決まっていたらどうでしょうか?
あなたの寝る時間、起きる時間、休みの日のスケジュール、その日に着る洋服…などなど、すべてが決められてしまっているとしたら、とても窮屈だし、不自由ですよね。また、ルールが多くなると、それを覚えるのも大変です。
こうやって考えていくと、ルールは多ければよいというものではない、ということもわかってくるはずです。

ルールを大切にすることは、安全で安心な集団生活の基本となります。また、スポーツなどを楽しく行うためにも必要なことです。しかし、そのルールに厳密になりすぎると、本来の活動そのものに制約が生まれ、楽しさが失われて窮屈になってしまうことがあります。

ASD(自閉スペクトラム症)の特性の一つに、決まりを守ることに過度なこだわりを示すというものがあります。そのこだわりについて、本人は「ごくごく当たり前のこと」だと思っていて、プラスな面を強調していえば「正義感が強い」、マイナス面を強調した言い方をすれば「融通が利かない」「原理・原則論にとらわれてしまう」となります。


また、「自分こそが正しい」という気持ちでいることも多く、自分に厳しいだけでなく、相手に対しても同じレベルを求めてしまい、なかなか柔軟に対応できないところがあります。

こうした特性に対し、「もっと相手に優しく」とか「そんなに厳しくしなくても」と指導しても、行動はあまり変わりません。それどころか、「なぜ、正しい自分が非難されなければならないのか」と強い反発を生むこともあります。ですから、抽象的な指示ではなく、具体的なソーシャルスキルの支援をする方が効果的です。ソーシャルスキルトレーニング。(SST)

子供の場合は、たくさんのより良い失敗を重ねながら人は幼少期から大人への階段を登っていくのでしょう。

でもですね、成長の過程は幼少期から人は様々です。発達にムラがあります。発達障害という言葉もあるくらいです。発達に早い遅いがあるという事です。60歳でやっと獲得出来る事もあるかもしれません。我々は人の成長の発達の段階の多様性を認めましょう。年齢だけで判断しないで。学校でASDのタイプの方が、たとえば廊下は走らないというルールがあった場合、皆の前で何々さんはルールを守らない人ですと注意したら、その注意された児童が影響力のある場合、全員の前で恥をかかされた事に対して逆恨みをして、自分の仲間と一緒に注意した人間を仲間外れにする事でしょう。いわゆるイジメです。注意した人間は、周りから人が離れていき、2次障害で鬱も併発して、不登校になる可能性は充分ありえます。注意をするという事は非常に難しい事なのです。職場では、管理者がその役割を担います。その時の姿勢は、ルールの見解の違いに対して、怒るのではなく、叱るであり、一番は諭す姿勢が大事なような気がします。大切な仲間なのですから。(笑) 諭す姿勢の良いなと思った映画は、ライオンキングのとーちゃんが子供の主人公に冷静に諭している所がええなと思っています。子供の場合は、本気のスクールカンセラーや先生がいる場なのなら幸せな場所ですね。早い段階で集団の空気の乱れや個々の波長を理解して収集をする必要は責務の必須の仕事なのです。(出来ない人や、やる気のない人は、遠慮した方が良いと思います。早期療育は社会の最重要課題で子供に関わる職場は聖職の領域なのです。)、個別支援で個々を責めるのではなく、相手の状況を伝え、お互いを必ず守ると伝え、その場全体を守りましょう。それがSWの役割です。潤滑油なのですからね。(笑) 誰も悪者にはしません。するなら、SWにしましょう。(笑) すみません。でも、SW職は結構いつも、傷つきます。バアーンアウトは常日頃起こりえる可能性があります。でも人を支えるということは、結局自分が支えられて幸せでもあります。誰かを助ける事が出来た時に、自分がいて、少しでも助かったのなら良かったなと存在意義が高まります。支援は、支え支えられる楽しい事です。(笑)

ルールに厳密になりすぎると、まわりの雰囲気がギスギスしたものになります。ただ、ルールを順守すること自体は、決して悪いことではありません。大人の世界であれば、経理や文章の校閲、プログラミングのエラーを見つけ出す仕事などで能力が発揮できます。指導を通して、柔軟さの発揮を期待すると同時に、子供の場合は持ち味を生かすことも考える事は大切になります。

ルールを守って行動すれば、安全に生活することができます。スポーツも、ルールをみんなで守ることで、お互いに公平に競い合うことができます。もし、みんなが好き勝手にルールを決められることになれば、大混乱が起きます。だからルールは大切です。

ルールを守ることは大切なことですが、ルールに厳しすぎると、みんなが楽しめなくなってしまいます。また、人をだますことはいけないと言われていますが、スポーツではルールの範囲内であればそれが技術や戦術の一つとして認められています

原理・原則を振りかざして譲らない人が少なからずいます。組織の中で責任ある立場に就いている場合もあり、その周辺にいる人たちはたいへん苦労します。大人の場合は「適度な距離を保つ、無理して戦わない、しのぐ」ことが対応策の一つです。

まったく関係のない人でも、誰かがルールを破ったのを見てしまうと猛烈に腹が立ち、取り憑かれたようにそれについてばかり考え、怒りの感情に飲み込まれてしまう事はあるものです。

誰かがルールを破る行為を見た瞬間、怒りは爆発的に湧いてきます。でもそれを口にする時は我慢の限界を超えたときです。他人にはこの経緯が見えないため、いつも「突然怒る」という印象になります。

これは「ルールに厳格である」という特性に、「自分と他人の境界が曖昧」という特性が重なったために起こるのではないかと考えています。


思い通りに状態が改善されたにも関わらずまだ怒りが収まらないのは、ルール違反に対する怒りが解消されていないからなのかもしれません。


自分と他人の間には境界線があることは大切な事です。そもそも、ルールの世界が違うのかもしれません。

SWに相談しましょう。そうしょう。(笑) どにいるの、フローリッシュハウスには沢山いますがね。(笑)

この線はとても大切な事で、他人が勝手に相手の陣地に踏み込んではいけない事です。

ズカズカと踏み込んで、他人の行動を無理矢理変えさせるような人の隣には、誰も近寄らなくなります。

相手の陣地に乗り込んで自分の思い通りにするという事は、暴力的な行為になります。

対、国同士でもあります。ルールとルールがぶつかって戦争が起こっています。

「何々をしているよ」と教えてあげるのは親切ですが、でも「何々しなさい」と命令するのは威圧になります。

たとえ近しい仲であっても、境界線を超えてはいけない事です。

自分にも他人にも、それぞれ物事を選択する自由があります。

人は、境界線を超えてはこないという安心感が信頼感に繋がり、共に歩んでいけるのだという事にもなります。


例えば、小さい子供のいる方の場合、「早く寝なさい!」という命令は、「そろそろ寝た方がいいんじゃない?」という提案の方が良いです。諭しましょう。

提案は、とても大事な事です。断れたら、待ちましょうよ。(笑)

「早く用意した方がいいんじゃないは。」という提案は、「早く用意を終わらせた方が出発まで焦らなくて済むから安心だね」という成功体験を思い出すきっかけになるかもしれません。一人の人間として子供でも尊重していく姿勢が大切です。

Ghや障害福祉分野でも大事にする、スモールステップですね。


どうしても、注意しないといけない場合も、勿論ありますよね。(笑)

人は感情の動物なので、感情的になる事もありますよね。謝罪と反省は必要な大切な事です。

自分もよくあります。反省です。(笑)

どうしても注意をしたい時は、その場所の、そのあたりを管轄している管理者や担当者や信頼のあるSWにお願いや相談する事が賢明です。

注意を直接するのは、とても難しく大変な事です。直接の注意は避けた方が良いかもしれません。トラブルになるし、プロのレベルが必要です。

ルールはとても大切な事ですが、それを適用していく事は難しい時があります。

でも、人と人や制度との環境の問題の接点にいる福祉職のSWは、お互いの想いを受けとめながら、柔軟な対応が常に求められます。SWの方々は潤滑油ですからね。双方を生かす為の職種であり、それがやりがいになります。(笑)

世界中の全ての犯罪を防ぎたいと思っている方が付く職業がSWだと自分は思っていますよ。

様々な社会問題に出会う度に、助けてあげたかったなと被害者にも加害者にもどちらに対しても常に思います。それが、福祉的視点だからです。

あなたが関わっているおかげで、何の問題も起こらずに楽しく皆過ごしているのがSWの誇りです。フローリッシュハウスのスタッフは今後もより良い利用者支援を目指して、チャレンジをいとわず成長をしつづけてまいります。

勿論、時に息抜きをしながら、無理なくやっていきましょう。(笑)

現在の福祉の主流の考え方が、ミクロ、メゾ、マクロの視点になります。

ミクロ、メゾ、マクロ視点の大きな違いは、支援対象の範囲にあります。

  • ミクロ視点:個人や家族など、小規模な単位での支援。具体的な問題解決に直接介入します。
  • メゾ視点:小グループやコミュニティに対する支援。グループ全体の相互支援を促進し、コミュニティの力を強化します。
  • マクロ視点:地域社会全体や政策レベルでの支援。社会全体の問題解決を目指し、広範囲な影響を与えることを目標とします。

これら3つの視点に共通するのは、SWとしてのクライアントの生活の質を向上させるためのアプローチであることです。

 どの視点でも、クライアントのニーズに応じた支援を提供し、社会資源を最大限に活用することが求められます。また、常にクライアントの自己決定権を尊重し、支援の質を高めるための工夫を凝らすことが重要です。

ミクロ・メゾ・マクロ視点は、SWの支援において不可欠な概念です。

 ミクロ視点では個々のクライアントに寄り添い、メゾ視点ではグループやコミュニティ全体をサポートし、マクロ視点では社会全体に影響を与える取り組みを行います。これらの視点をバランスよく活用することで、効果的な支援が可能になります。

3つの視点を持ちながら、より良い利用者支援に繋がるようにフローリッシュハウスのスタッフと共に今後も努めてまいります。

目の前の一人をよくする事が、制度も含めて改善を行っていき、国自体すらより良くしていく。

簡単にまとめると、ラブ&ピースなのかなと思いますが。(笑)

by スタッフ M